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2010年8月25日 (水)

60年前の「悪女」

 特定の監督や俳優の全作品を発表順に観る全篇鑑賞シリーズを始めて,黒澤明,ビリー・ワイルダー,デヴィッド・リーン,ウディ・アレン,スティーブ・マーチン,クリント・イーストウッドを終えた。今度は,ウィリアム・ワイラーとロジェ・ヴァディムに挑戦することにした。全篇といっても手に入る作品に限られるのは仕方がない。

 ロジェ・ヴァディムは,『素直な悪女』(1956)からである。ロジェ・ヴァディムはブリジット・バルドーと結婚し,彼女が初の主役となったのがこの作品である。四人ほどの男に想われるブリジット・バルドーは,演技が本当に下手で,いつも不服そうな表情しかできず,何も考えているようには見えない。少しも「悪女」とは思われない。ロジェ・ヴァディムもあまり考えていないことがよくわかる。

 一方,ウィリアム・ワイラー作品では『この三人』(1936)を最初に観た。途中で,これは,オードリー・ヘップバーンとシャーリー・マクレーンの『噂の二人』(1961)と同じであることに気付いた。原作はリリアン・ヘルマン『子供の時間』である。ウィリアム・ワイラーは,25年後に『この三人』を再映画化して『噂の二人』を撮ったのだった。

Thesethree
 この映画で,強烈な印象を受けたのは,主人公たちではなく,脇役の女生徒メアリ(ボニータ・グランヴィル)である。これがすさまじい「悪女」なのである。いくらでも平気で嘘をつき,様々な奸計を思いつく。善人の大人たちの弱みを知れば,それを利用する悪女ぶりは実にすばらしく,また憎々しい。映画を観ていて,何とひどいことをするのだと義憤を感じてしまう。たいした理由はなく,ただ自分のわがままのために他人を苦しめる。ブリジット・バルドーは爪の垢を煎じて飲むべきだった。


2010年8月23日 (月)

『空から日本を見てみよう』を観ていると時間を忘れる

Sorakara 優良番組と教えられて観はじめた『空から日本を見てみよう』(テレビ東京系列,木曜,7:56~)に魅入られた。


 東京を中心に,空からの映像を見せるというシンプルなアイデアを実行した番組である。普段は1時間だが,先週はお盆の特集で2時間番組。沖縄の本島をほぼ海岸線に沿って一周した。もちろん嘉手納基地も普天間基地も上から映す。しかし,基地だという以外に余計なことは一切言わない。沖縄の海は美しく,海岸沿いにリゾートがこれほどまでも展開しているとは知らなかった。

 ナレーションは,雲の格好のくもじい(声:伊武雅刀 )とくもみ(声:柳原可奈子)というさほど工夫のみられないコンビである。でもこれがなかなかいい。たとえば山手線上空を飛んでいると,くもみさんが「大変です。変なものがあります」と言い,くもじいは「どれどれ,見に行ってみよう」と地上の場面になる。関係者に「くもじいじゃ」と名乗ると,その人物が説明を始める。基本的にはそれだけであるが,上から見てとんがった建物の角度を計測したり,公園にある大きな動物の形をした遊具のコレクションをしたりもする。けれどもタレントが出てきてクイズを出すといったことは一切ないし,観光案内をすることも,感傷的になることもない。

 地上に降りたり,コマーシャルが入ったりして中断しても,次にはきちんと前の続きから始める。今の民放はこのあたりがいい加減なので腹が立つが,この番組は気持ちがいい。それに,地上で立ち寄る店とはタイアップなどしていないだろう。ストイックである。

 くもじいとくもみの会話は,時に辛辣なこともあるが,全体としてはのんびりとしている。けれども,全体の情報量は多い。放送済みのものを観たいと思ったら,DVDが出ているので,早速,自宅近くが映っているテーマのものを買うことにした。


2010年8月14日 (土)

『小さいおうち』の語られない真実

Chiisai 直木賞受賞の中島京子『小さいおうち』(文藝春秋,2010. 320p.)を読んで感心した。昭和5年に尋常小学校を卒業したタキは,女中奉公のため,東京に出る。最初の奉公先は有名な小説家だったが,タキの頭の良さを見抜く。しかしタキは,直ぐに,その先生の知り合いの,小さな子供がいて手がかかって困っているまだ22歳の若妻時子のところに移る。タキは14歳だった。時子の夫はまもなく事故死するが,子供とトキを連れて二度目の結婚をする。新しい夫の平井は,玩具会社の重役であり,成城に赤い瓦屋根の二階建ての家を建てる。これが「小さいおうち」である。タキと時子はこの「小さいおうち」の中で,「気持の通じ合った」関係が築いていく。

 どこに感心したかといえば,戦前から戦後まであった「女中」について,女中の側から描いて無理のないことである。これは,何重もの偏見を取り去らなければできないことである。また,昭和7,8年から17年にいたる普通の人たちとは言えないかもしれないが,東京山の手の住人の生活感を,年ごとに微細にかき分けている点である。戦後からみた時局中心の記録ばかりの中で,こうした感覚を掴むのは難しい。東京オリンピックの顛末や紀元2600年祭がどう受け取られていたかがよくわかった。

 そして,もう一つの感心したのは,淡々と語られる中にわずかに浮かび上がるドラマがあるばかりでなく,この主人公は時子ではないかと思わせる一方,書かれた内容に疑いも示され,最後には語り手が読者に問うて終わっているところである。何故,手紙を届けなかったのか,あるいはその時に起きていたことについては,語り手の述べていないことまで含めて,想像が広がる。また,時子の子の恭一が成長するにつれ,弱い者いじめをする子になっていくこともさりげなく書かれている。


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