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2006年10月17日 (火)

ようやく第四シーズン(『24』)

Mandy  ようやく『24』のシーズンIVを観た。前半は,DVD,後半は,フジテレビの連続放映である。『24』は,リアルタイム進行が特色であるが,実際は,43分ほどしかない。残りは,コマーシャルである。これは日本のテレビドラマも同様であるが,DVDとなると,CMの部分はないので,緊迫感が持続する。日本の地上波テレビ放映では,当然のこおtながらCMが入るが,米国でも視聴者はこうして観ているのか辛かろうと実感できる。もちろん,テレビ放映であっても録画しているものを観るので,CMは早送りするだけだが。

 『24』は,FBIのテロ対策部門「CTU」が舞台なのであるが,ジャック・バウワーだけでなく,主要スタッフは大統領と直かに電話している。そうでないと話がスムースに進行しないのであるが,突然,大統領になった人物もこのことを不自然とは思っていないようだった。

 このシーズンIVは,一人が引き起こす四つの事件からなるが,このようなことが24時間の内に連続して起これば,国中がパニック状態となっているだろう。

 基本的には,犯人の居所を知るための捜索活動と突入の繰り返しである。ジャック・バウワーの仕事は,もちろん現場指揮官である。ジャック・バウワーは不死身であるばかりか無謬である。判断と行動に誤りはない。しかも,テロの防止のためには,あらゆるものを犠牲にして構わないと考えていて,大統領が反対しようが,国際問題となろうが,倫理に反しようが実行する。無実の何十万人,何百万人が死ぬことを防ぐためなら,拷問どころか,同僚を殺すことも平然と行う。

 普通なら,劇中でも議論があるはずだが,ジャック・バウワーに与えられる時間は常に短く,葛藤する時間もない。『24』が,とてつもなく大勢の人々を救うことができるなら,わずかな人々の犠牲は見逃すしかないというメッセージを送っているとは言いきれないが,ジャック・バウワーの判断は常に正しいということになっているため,視聴者にそうした主張を刷り込む可能性は高い。

 この『24』シーズンIVでは,このジョン・カサー監督は,サスペンスやアクション面を描くのは実に上手なのであるが,ロマンス描写では今ひとつであることがわかる。アルメイダとミシェルの仲はセンチメンタルであるし,登場時には,聡明であったオードリーは,最後に重大なことを知らせて貰えない程度の女, 24時間の間に何も学ばない愚かな女として扱われている。とはいえ,これは24時間という制約がもたらした結果なのだろう。肉体中心のアクション場面には時間の問題はないが,恋愛感情の動きを時間刻みで見せるのはできないということなのだろう。

 オードリーはシーズンVにも登場するらしい。それよりも,最後に出てきた,タフで冷酷な若い女性殺し屋マンディの再登場が待たれる。

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2006年10月10日 (火)

『きみがくれたぼくの星空』という書名に主人公は怒るだろう

Checosa  ロレンツォ・リカルツィ『きみがくれたぼくの星空』(Licalzi, Lorenzo,Che cosa ti aspetti da me?.  泉典子訳. 河出書房新社,2006)は,書名はまだしも,「ぼく」という一人称は困る。誇り高いこの人物が日本人であった場合,自分を「ぼく」あるいは「僕」と呼ぶことは,ほぼ全くない。この翻訳者は,多くの男が「ぼく」という言葉に抱いている感情を全く理解しないでいる。翻訳の調子にも軽薄なところがある。

 主人公トンマーゾ・ベレツは,80歳すぎで,かつてはケンブリッジやローマの大学の核物理学者,天文学者だった。妻は既に亡く,老人ホームで半身不随であるが,頭はしっかりしている。前半は,身体が自由にならない苛立ちと,老人ホームの生活への愚痴である。活性化プログラムやボランティアが老人ホームにやってきて,「おじいちゃん」と呼ぶお節介を痛烈に批判する。ここまででうんざりすれば,残念な結果となる。エレナの登場場面は,ほんのわずかである。ここで作者が言おうとしているのは,もう先には何もない老人同士にも恋愛があるということではない。そうしたセンチメンタルな話にはせず,むしろ論理的に話を展開していくのがよいところである。

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